金剛寺 高幡不動尊
「高幡のお不動さん」と呼ばれて、親しまれています

関東三十六不動霊場 九番札所
武相不動霊場 二十八番札所
東国花の寺百か寺霊場 八番札所
高幡山内八十八か所霊場
日野七福神
名 称 | 高幡山明王院金剛寺 |
場 所 | 日野市高幡733 |
電 話 | 042-591-0032 |
交 通 | 京王線・多摩都市モノレール高幡不動駅下車徒歩2分 |
真言宗智山派別格本山。
京都智積院を総本山とする関東屈指の古刹であり、高幡不動として広く知られています。関東三大不動の一つといわれており、初詣から始まり、毎月28日の縁日をはじめ、節分会、萬灯会などの年中の行事に加え、境内地四千数百坪と、接続する山林を合わせて三万坪からなる敷地に織り成される四季を彩る自然と景観風情の中で、あじさい祭り、紅葉祭りなどの催しも行われています。
また、毎月第2日曜日はリサイクル市、第3日曜日はござれ市(がらくた市)が行われ、一年を通して参拝客が絶えることがありません。
その歴史は古文書によれば大宝年間(701)以前に創設された、あるいは奈良時代に行基菩薩が開基したとも伝えられていますが、1100年も前、当時の清和天皇が当地を東関鎮護の霊場とする勅願によって、平安時代初期に慈覚大師円仁が、山中に不動堂を建立し、不動明王を安置したのに始まりました。建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊し、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)現在の場所に移し建てたのが、今見る不動堂です。関東ではに特筆する古文化財で、続いて建てられた仁王門とともに国指定重要文化財に指定されています。
足利時代には「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟を得、さらに江戸時代には関東十一檀林に数えられ、庶民には火防の不動尊として広くの信仰を集めていました。
不動堂の本尊、重文丈六不動三尊は古来日本一と伝えられる総重量1100kgを超えるもので、平成14年春、千年ぶりの修復作業が完了しました。
安永8年(1779)火災に遇い、門末三十六ケ寺を従え関東地方屈指の大寺院であった金剛寺も大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失してしまいました。復興は徐々に行われて来ましたが、特に戦後、仁王門、不動堂の改修から殊に昭和50年代から五重塔の建設、宝輪閣、奥殿の新設など境内の充実には目を見張るものがあります。
新選組関係では、この金剛寺は土方歳三の菩提寺であり、土方家は檀家頭格の家柄です。大日堂では毎年、5月の命日には法要が行われています。殉節両雄之碑・土方歳三の像が境内にあり、更に奥殿には歳三の手紙や東照大権現の幟・新選組英名并日記等の資料のほか、歳三と交わりの深かった幕末名士達の書軸などが数多く展示されています。
仁王門
高幡不動の仁王門は国の重要文化財に指定されています。昭和33年に改修され重層銅板葺造り、寄木造りの立派な金剛力士の一対が左右に安置されています。
不動堂

現在の不動堂も昭和33年に改修されたもので、重要文化財に指定されています。
この不動堂は金剛寺を代表する建物で丈六不動三尊が安置されています。ただし、この丈六不動三尊は平成12年から14年にかけて行われた1000年ぶりの修復作業の際、不動明王像不在のため、平安後期の様式を忠実に造立された身代わりの本尊として新たに創られた新丈六不動三尊(新本尊 作:北宗俊)です。
重要文化財の丈六不動三尊は現在不動堂裏の奥殿に安置されています。
奥 殿
不動堂の裏手にある朱色の建物が奥殿です。ここは高幡不動尊に伝承されている数多くの文化財を保管、展示する堂で、重要文化財の丈六不動三尊も安置されており参拝することができます。
新選組関係の資料として奥殿には、土方歳三書簡、土方歳三隊々旗「東照大権現」の幟、中島登覚書写し、天然理心流佐藤道場使用の木剣など多数が収蔵されており、展示室で順次展示されています。
大日堂
高幡不動尊境内の奥まった所に大日堂があります。
大日堂は高幡山の総本山で、土方歳三の位牌もここに納められています。堂内には平安時代に造られた大日如来像が安置されています。
鎌倉時代様式の堂は昭和62年に終わった改修の際、復元されたものです。公開されている鳴り龍天井は有名。
安置されている江戸時代の優れた彫刻や、後藤純男画伯が描いた襖絵「桂林山水朝陽夕粧」も拝観できます。
大日堂鳴り龍拝日時
拝観時間 | 9:00~16:00 |
休館日 | 月曜日 |
拝観料 | 200円 |
殉節両雄之碑
故幕府新選隊士 近藤昌宜・土方義豊碑
明治政府は戊辰戦争に関係した東軍の戦死者の墓碑の建立や供養を禁止しました。この禁が解けた明治九年に元隊士・永倉新八が中心になって板橋刑場の側に近藤・土方ら新選組隊士の供養墓が建立されました。
同じ年に日野でも高幡山前住賢雅和上や日野宿の佐藤彦五郎を中心に「近藤・土方の忠節を顕彰する碑」を高幡山境内に建てることが計画されました。
しかしその内容が当時賊軍扱いされていた両士の顕彰碑だったために碑が完成しても建立の許可が得られず、実際に建てられたのは明治21年です。
最後の将軍徳川慶喜は、歳三の「唯死あるのみ。即ち寛典に処すとも吾何の面目あって、また昌宜と地下にまみえんや!」との文言のある碑文を読み、無言のまま落涙したと言われています。
土方歳三銅像
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