コットン、コットン、水車が回る

多摩の米蔵と呼ばれていた日野。
その石高を支えていたのが、用水路です。

コットン、コットン、水車が回る
高幡不動駅から徒歩5分、向島用水の水車です

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コットン、コットン、水車が回る
水量は取り入れ口で調整
コットン、コットン、水車が回る
杵の上下運動数⇒37回/分水車の回転数⇒9.25回転/分
コットン、コットン、水車が回る
中心にあるのは藁で編んだ米を循環させる「わっか」
コットン、コットン、水車が回る
郷土資料館から出張してきた「万石通し」。
糠を落とします
コットン、コットン、水車が回る
糠ふるい後は厳密な計測をします

今でも、全長120㎞余りの用水が張り巡らされていますが、往時に比べれば、だいぶ短くなってしまいました。
特に近年は、区画整理や住宅開発、そして後継者の不足からの田んぼが減少し、見る見る間に姿が消えています。
とは言っても、400年余りにわたって日野を潤してきた用水路を簡単になくすことは心情的にもできず、それではと、行政にも全国的にも珍しい「緑と清流課」が30年ほど前に作られ、街を潤す憩いの流れとして用水路の保全に努めています。
江戸時代の終わりから明治、大正、昭和にかけては用水の流れを動力として利用する水車が活躍し、その数は市内で54基にものぼったといいます。
共同で所持したもの、個人持ちの「請負作業」専門の水車もあり、あるものは、米を精米し、麦を挽きという具合に利用されていました。
戦後になると、近代化の流れとともに、当然のごとくその水車たちも役目を終え、一つひとつと消えて行きました。
今、市内にある水車は2ヶ所。
一つは高幡不動駅からすぐの向島用水に架けられ、あと一つは日野用水から分水された流れにあります。
両方とも、用水の保全とともに、昔の様子を伝えるために「新造」された水車です。
向島用水路は、高度成長期には取水している浅川が「排水路」となってしまったため、汚水が流れこみ、序所に用水路の本来の姿は忘れられて行きました。
そこに再び清流をとりもどそう!、との取り組みによって、コンクリート張りで深かった水路を改修、流れに沿って親水路、流れに沿う潤徳小学校の敷地内にはビオトープも整備されて、今の姿となっています。
ビオトープは全国でも、早い時期での環境教育への取組みで、今も見学者が絶えません。
この時に小屋の中にはちゃんと臼も備えた水車も架けられたのですが、問題も起りました。
動かせば当然のごとく、特に常時水がかかる水車は傷みも早く、定期的に修理も必要です。
それ以上に、本来の機能である、臼を使う人がいないため、ただ回るだけ、水車が活かされない状況が続くことになってしまったのです。
飾り物ならともかく、せっかく「働ける」水車があるのにもったいない、と思うのは誰でもです。
そこで今年になって、この水車を使って精米をしてみよう、という実験が始りました。
昨年、法政大学の法政大学エコ地域デザイン研究所が中心となって、「日野塾」が行われ、それがきっかけで発足した、「水車活用プロジェクト」に参加した市民のみなさんが中心となって、水車を地域や学校などで活用できる可能性を探る活動の一環としての実験です。
あいにくの雨ではありましたが、20名ほどの参加者が見守る中、コットン、コットン、水の力が伝えられた臼は、サクッ、サクッと小気味よい音と共にゆっくりと精米をします。
もう、30年ほど前ならば、現役の水車で作業をされた、経験者がたくさんおられたはずですが、今となっては、「実験」を重ねながら、経験を積むしかありません。
10kgの玄米、これは、この用水の恵みで穫れたお米、を試料に、時間と方法を丹念に探っていきます。
きっと、昔は塩梅でサクサクと事が進んだのでしょうが、一回途切れた技術を取り戻すのは大変なことです。
初夏の林を打つ雨音、ちょっと水量が増した用水、水車から流れ落ちる雫、そして小屋の中に響く、杵のリズム。
ゆっくりとした時間が流れていました。