普門寺
八坂神社の別当寺でした
名 称 | 土淵山観音院普門寺 |
場 所 | 日野市日野本町7-5-19 |
電 話 | 042-581-2478 |
交 通 | JR中央線日野駅下車徒歩10分 |
普門寺は真言宗智山派で高幡山明王院金剛寺の末寺に属していた寺院です。
創建は室町時代のはじめ、応永5年(1398)僧義雲の開基と伝えられ、もとは現在地より西、本宿と呼ばれる付近にありました。元亀元年(1570)、現在の甲州街道が整備されたのに伴い、清宥の代になって現在の地に移されています。
牛頭天王社(八坂神社)の別当寺として社務をつかさどっていましたが、明治維新政府の神仏分離によって、別当は廃されました。しかし、現在でも墓地の中程、八坂神社神職を務める土渕家の墓所には石の鳥居があり、神仏習合の珍しい姿を見ることができます。
本堂の右手には八幡石と呼ばれる、大石が置かれています。これは伝説によると、寛文4年(1664)、当時の住職に夢の中で「高倉の北の1つの塚に大石がある。そこはもと北条氏が八幡宮を勧請、宝剣1振、矢2筋を納め、武運長久を祈ったところである。しかるに北条氏没落の後は、誰知るものとてなく、農夫がこの霊地をけがして困るから、当山に移し奉れ」とのお告げがあり、ここに移したのだそうです。
このときの大石運搬の遷座祭には、日野宿中の人々が飯の炊き出しをしたりして、大さわぎだったと伝えられています。
明治初年には境内の広さ850坪、堂宇も広く、日野小学校(日野第一小学校の前身)創設の際、本堂は仮校舎となりました。その後、明治11年(1878)には堂宇も取り払われ、日野小学校校舎が現在の公民館の場所に新築されるに伴って、境内のほとんどは学校敷地と折半となりました。
観音堂(市指定有形文化財)
普門寺観音堂は下河原の廃寺西明寺(福地蔵のあたり)にあった堂宇を移築したもので、文化4年(1807)に建立されたものです。
明治10年(1877)に普門寺へ曳き屋し組み直し、その後、大正元年(1912)になって、大改造がなされ、普門寺の本堂として使われていましたが、度重なる改築で建物の形は大きく変貌していました。
昭和63年(1988)、本堂の新築にともなって調査修理が行われ、当初の形と考えられる禅宗様の三間堂(さんげんどう)の姿で現在の場所に復原されました。
鉄製護摩炉(市指定有形文化財)
護摩とは、お不動様の前に壇を設け、護摩木という特別な薪を焚いて、諸願の成就を祈る真言密教の修法です。その護摩を焚くのが護摩炉で、普門寺に伝わる鋳鉄製のものは室町時代に作られたと考えられています。護摩炉は現在、高幡不動尊の奥殿に保存展示されています。