平山季重 Vol.3 平山季重のころ

「多摩の横山」と万葉集にも詠まれた多摩丘陵、平山はその下を流れる浅川に沿った地です。


眺め 平山の丘陵の尾根に上がり、一望すると西に丹沢、その奥に富士の巓、平野を巻き込むように甲州から多摩川が源とする山々、秩父と連なり、はるか野の彼方には上州赤城、日光男体山から那須の峰、そして筑波の山が浮かぶように見て取れます。
 眼下に転じると、横切る流れは浅川。その川を上流へとたどれば山裾に広がる八王子の街、正面には多摩川と浅川にはさまれた日野の地が望め、さらに見れば武蔵野台地が関東平野と名を変えるあたりも先、その昔の「武蔵国」が目の前に拡がります。
 今を去ること約900年前、当時の武蔵国には武蔵七党と称される武士集団があり、彼らは源氏に属して勢力を張っていました。横山、西、村山、児玉、丹、猪俣、与野らの各党で他に畠山重忠、熊谷直実の党などがありました。平山の尾根から見渡せる地は、当時は武蔵七党の支配地だったのです。そしてこの平山の地を領していたのが「平山氏」という武士一族でした。平山氏は西党一族に属していました。
 西党は現在の日野市、立川市、狛江、そしてあきるの市あたりに勢力を張り、現在の八王子を拠点とした横山党と並んで多摩川と浅川の水をもって村落を開拓し、農民とともに成長した裕福な地主階級であり、組織者でもあり、この時代武士が盛んに用いた赤駒、黒駒を産する牧場も経営していました。
 平山氏の祖先をたどって行くと、日奉宗頼(ひまつりむねより)に行き着きます。日奉宗頼は京都から武蔵府中に国司として赴任し、任期後、帰国せずに土着した人で、その子孫たちは東光寺台地(日野市新町)に拠点を置き、西党の首領として一族を束ねていました。西党が結束されたのは、平安時代中期、平将門の乱が起こった頃といわれています。