八坂神社(天王さま)
伝説によると、多摩川の淵から拾い上げられた牛頭天王像を勧請し祠を建てたのが八坂神社の始まりといわれています。
場 所 | 日野市日野本町3-14-12 |
電 話 | 042-581-1175 |
交 通 | JR中央線日野駅下車徒歩2分 |
祭 神 | 素盞嗚尊(すさのおのみこと) 櫛御気野命(くしみけぬのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) |
例大祭 | 9月第3土曜・日曜日 |
宮 司 | 土淵眞佐子 |
記録に残されているものでは、応永5年(1398)、普門寺が開基され、牛頭天王社を管理するようになった。とありますから、600年以上の歴史を持つ神社です。元亀元年(1570)、普門寺の移転と現在の甲州街道の道筋が定められたことから現在地に遷座しました。
本殿は寛政12年(1800)に建造されたもので、精巧な彫刻が組み込まれた江戸後期を代表する神社建築として日野市指定重要文化財に指定されています。
土方歳三が蝦夷に渡り、最後の戦いをしていた明治2年(1869)、日野でも大きな問題が持ち上がっていました。
それまで、300年余りの間日野宿の人たちに「天王さま」と呼んで親しんできた牛頭天王社が明治維新政府の神仏分離によって別当であった普門寺から切り離されることになったのです。
牛頭天王はインドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神です。神道で祇園の神といえば素盞嗚尊、八坂神社に改名されるまでは 「祇園社」の篇額が掲げられていましたから、「八坂」と称されることになったのは無理なく決まったことだったと思われます。ちなみに佐藤彦五郎が万延元年(1860)に奉納した「祇園社」の篇額も残されています。
その翌年、明治3年(1870)は、もともと本宿(日野駅の北東)にあった普門寺と牛頭天王社が現在の位置に遷座されて、300年にあたる年でした。
この機会に佐藤彦五郎の子、俊宣が発起人になり、10年の歳月をかけ、神輿や神輿庫、お仮屋などが新建されました。現在、千貫神輿と呼ばれ、お祭りの時に渡御する神輿はこの時新調されたものです。石造りの蔵風の神輿庫も今なお使われています。
この時かかった全ての費用約900円のうち1/3以上を名主であった佐藤家が負担しています。
鳥居と本殿に掲げられている「八坂社」の篇額は、明治7年(1874)、佐藤俊正(彦五郎)の願いによって有栖川宮二品熾仁親王が特に書かれたものを飜刻したものです。
八坂神社には後に新選組に参加することになる近藤勇や井上源三郎らが奉納した天然理心流の剣術額があります。天然理心流の創始は寛政元年(1789)ころと推定されており、創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、二代目三助は戸吹(現八王子)、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていました。
安政5年(1858)に奉献された剣術額には日野宿の剣士たち23名と近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります。
天然理心流奉納額
天然理心流の創始は寛政元年(1789)ころと推定されています。
創始者の近藤内蔵之助長碑裕は長江(静岡県)の人でしたが、二代目三助は戸吹(現八王子)、三代目周助は小山(現町田)、四代目勇が石原(現調布)と多摩地域と縁が深く、名主や豪農、八王子千人同心を中心に農民の間でも習われていました。
安政5年(1858)に奉献された剣術額には日野宿の剣士たち23名と近藤(嶋崎)勇、客分として沖田(惣次郎)総司の名が連ねてあります。
奉納額公開日 | 新選組まつり当日と八坂神社例大祭当日 |
時 間 | 10:00~16:00 |
電 話 | 042-581-1175 |
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