春の団地祭り
やっとこのごろ寒さも峠を超えたような超えないような。
三寒四温とは良く言ったものです。
3月3日を過ぎればもう立派に春ということなのでしょう。
高幡台団地では「春の団地祭り」が行われていました。
祭りというからには、お神輿を担いだり、山車を引いたり、お囃子が賑やかだったりと、思いがちですが、そうではありません。
日野には「団地」と名が付く集合住宅が昭和30年代から40年代にかけて、多摩平団地、百草団地、ここ高幡台団地、平山団地、いずれも高度成長時代の人口流入による住宅難を解消するために建設されました。
当時は「団地」というと、綺麗な、現代的な暮らしがそこにはあると、田畑が広がっていた日野では羨望の的。
でも、そこにはある意味面倒でもある地縁や血縁もないかわりに、お寺も神社もなく、祭りとか否応なしに顔を付き合わせる共同作業もありませんでした。
全ては住む人たち自らが、築きあげなければなりませんでした。
入居した家族は小学生以下の子どもが多いいわゆるファミリー層。
地域の関心ごとの中心にも子どもたちがいました。
子どもたちが楽しめる「祭り」を手始めに、親睦の和が深まっていったといいます。
高幡台団地では「春の団地祭り」、夏には盆踊りも兼ねた「夏祭り」が開かれています。
神社のお祭りでも近ごろは、「世代交代が難しくなった、ずっとおれらができるわけないじゃん」と、昔の若者たちの嘆きの声が聞こえてくるご時世。
神社もない団地では余計に深刻そうです。
「小さかった子どもたちは大きくなると団地から出て行った」、祭りの担い手は、年を経るごとに当然のことながら、一緒に年をとり、賑やかな声を上げていた子どもの姿は格段に少なくなりました。
臼が3つ、餅つきも、それをあんころ餅やきな粉餅にする女性軍も手慣れたもので、それからもこの祭りの積み重ねの年月を感じます。
「お年寄りが多いからね。引換券、自治体で配ってお昼にしてもらうんだよ」。
餅つきの後には、病院、歯医者さん、銀行、魚屋さん、床屋さん、肉屋さん、お寿司屋さん、魚屋さん、何でも揃った団地自慢の商店街。
今は全てが閉じられ、白いシャッターがアーケードの下に並びます。
見上げれば、エレベーター付き250世帯が住んだ11階建て、夜は丘の上に誇らしく団欒の燈を輝かせていた窓辺は6つだけを残すのみ。
祭りには日野にある明星大学の学生さんたちが「ゼミ」の一環としてお手伝いに来ていました。
自治体活動の勉強だそうです。
彼らが、何かを感じて、どこかで主役になってくれることを願わずにはいられません。