王手は日野の万願寺
「王手は日野の万願寺」。
聞いたことがありますか?
将棋の好きの方ならご存知かもしれません。
いよいよ、局面が最終にさしかかった時、「王手は日野の万願寺」、と小気味好く、最後の一手を打つ符丁といったらいいでしょうか。
左には中央高速、その先には最新の甲州街道日野バイパス。右手のモノレールの先には、大正15年に開通した日野橋があります
現在は中央高速が多摩川を渡る「万願寺の渡し」跡
多摩モノレールが上を通過している万願寺の一里塚
もうすぐ消える製粉所と火の見やぐら、そして道筋も
保存される予定の製粉所の内部にある杵搗式精麦機
では何故に万願寺が王手と関係しているか?
それは万願寺の地に、江戸と甲州を結ぶ今でいうところの甲州街道が、多摩川を渡る「渡し場」があったから、と言われています。
江戸初期、徳川幕府は江戸と地方を結ぶ幹線道路を制定しました。
その一つが甲州街道こと、当時は甲州海道。
江戸から武蔵野台地を甲州へ向かう道が、始めに出会う難所が多摩川。
これを渡らなければ先に進むことができません。
そこで選ばれたのが万願寺でした。
慶安年間(1648〜1651)、今から400年ほど前のことです。
ですが、その期間は短く、貞享元年(1684)にはさらに上流の「日野の渡し」が甲州街道の正式な渡しとなりました。
「万願寺の渡し」はその後も近隣住民の生活路として長い間利用されましたが、大正15年(1926)日野橋の完成とともに廃止されています。
江戸から出るのに難所であることは、江戸に入り込もうとする者にも難所。
万願寺の渡しは江戸の防衛線でもありました。
それに掛けてここを取られたら王手、だから「王手は日野の万願寺」。
「万願寺の渡し」から日野宿の入口、日野警察署までのこの400年ほど前に制定された道、「初期の甲州街道」など呼ばれてもいますが、ここには一里塚も残され、本当に長い間そのままの道筋で使われ続けてきました。
ですが、ここ40年の間で中央高速道路の建設、急激な都市化とそれに伴う都市計画道路で消えた部分がどんどん増え、そして現在行われている区画整理によって、その完成の暁にはほとんどが「昭和時代の地図」でしかたどれなくなりそうです。
その昔、広がっていた田んぼへの水路に掛けられた水で回っていあた水車を引き継いだ、地区共同の「動力製粉所」もお隣の火の見櫓ももうすぐ解体され、その前を通る「初期の甲州街道」の曲がりくねった姿も今秋で見納めになります。