行く川の流れは絶えずして
多摩川と浅川が流れる日野は稲作が盛んだった地。
それを支え続けてきたのが、用水路です。
2014年1月2日
2014年1月11日
2014年1月11日
2014年1月16日
豊田の鎮守若宮の神輿と昨年夏
田んぼが少なく、いやほとんどなくなった今でも張り巡らされた用水は残され、その延長は110km余りもあります。
しかし、数年前は170kmと言われていましたから、急激に3割もなくなっているのです。
なくなった原因は、区劃整理事業。
区劃整理によって田んぼが消えれば、そこにあった分水も消えます。
区画割りされた道路が出来れば、斜めに横切っていた用水は埋められます。
そういった小さな流れが多くの場所でなくなる運命をたどっているからです。
用水は日野の礎を作った流れであり、今に繋がる歴史には欠かすことができない存在であることは間違いないこと。
だから幸いなことに、「不必要」になったから、むやみに用水を無くそうとは行政も考えることなく、全国を見渡してみても珍しい、「緑と清流課」が役所に置かれています。
これから先も用水の流れを活かした「水の郷」としてまちを位置づけています。
用水に沿った親水路整備、公園に用水を引き込んだ水遊び場、田んぼを活かした公園、暗渠になっていた部分を再び蘇らせたり、とこれまでも、市内随所で「水と自然に親しめる」工夫がされてきました。
そんな日野の用水路を取り巻く状況の中で、趣きある表情を見せ、通りすがりの人を和ませてくれ、水の郷を印象付けていた情景が、年明けを待っていたように姿を消しました。
そこは、豊田用水にありました。
用水に沿って続く黒板塀、門をはさんで米集積所だった長屋の黒壁が連なり、水面とともに穀倉地帯だった往時を伝えてくれていました。
この長屋は明治7年に開校した豊田学校として使われてたこともある、史跡でもありました。
近くには、片側2車線の国道バイパスが建設中。
区画整理もそれに伴って行われており、周りの景色が一変することが約束されている中、「時代だから・・・」、でも「時を越えて」見ていたかった風情でした。