村は生きている

日野市、とひとことで言っても、現在の日野市が誕生したのが、約半世紀前。
おおよそ、今の市域が定まったのは、それよりちょっと前のこと。
ここ10年の間に、全国で行われた市町村合併ですが、それは今に始ったことではなく、明治維新後、たびたび行われてきた一つにすぎません。
かくゆう日野も、江戸時代に定められた村々が、寄せ集まって現在の姿となっています。

村は生きている

村は生きている
村は生きている
子ども神輿の出発です
村は生きている
道路拡張には神社の土地も提供
村は生きている
ここにももうすぐ道路ができます

当時、人びとの拠り所、また政治的にも中心となる機能を果たしていたのが、その村々に祀られていた鎮守でした。
その村としての地域の結びつきは、150年近くたった今でも脈々と生き続けています。
見慣れた地図や航空写真で平面的に単に位置としてとらえられる場所場所にも、キノコの菌糸が絡み付くように、時と人の営みが絡み付いています。
普段は姿を見せない「キノコが傘を広げる」時、それは特に鎮守のお祭りです。
4日に行われた「平山八幡神社」のお祭りもそのひとつです。
この神社は、「平山村」のほぼまん中、丘陵の麓にある村の中心からも、日野台地の畑からも、東西に流れる浅川からも、眼下に広がる田んぼからも、村のどこからでも見える、浅川が造った段丘の上に祀られています。
日野のほとんどの「鎮守」の宮司は、八坂神社が代行していますが、生活圏が近いためか、昔からの繋がりなのか、祭事を司るのは八王子八幡八雲神社の神主さんです。
祝詞の後、子ども会のみんなが担ぐ子ども神輿が祭り囃子に送られて、出発していきます。
ご多分に漏れず、神社の周辺は住宅へと変貌し、現在は残った農地も区画整理の真最中。
一昨年まで、子どもたちが体験米作りをしていた田んぼには道が造られ、もうどこにあったかも判らなくなりました。
名産だった梨も、昨年をもって、平山からは姿を消してしましました。
「随分と子どもの数も減ってしまった。オレたちの後に祭りを仕切ってくれるのがいないんだ。これからどうなっていくのやら」、と神輿を見送りながら、役員の方がポツリ。
神社の横の道も拡張工事中です。
そこを行くお神輿の、そろいの青いハッピがやけに浮かんで見えました。