日野が新選組ゆかりの地のいわれ、日野における新選組の歴史などをご紹介

新選組のふるさとひの

新選組のふるさと「日野」の由来について

物語りはここから始まった

新選組副長・土方歳三が生まれた地は武蔵多摩郡日野郷石田村。六番隊隊長・井上源三郎は日野宿北原、近藤勇、沖田総司らが剣術の腕を磨き、新選組に大きく関係することとなった天然理心流佐藤道場は日野宿問屋(日野本郷名主)・佐藤彦五郎が自宅に開いた道場でした。

いずれの場所も現在は東京都日野市に属しています。

日野は都心から30分、ちょうど東京都のへそに位置している市です。

日野の人口は18万強、かつて典型的な田園が広がっていた純農村だった町も今では典型的なベッドタウンの様相を示しています。

日野の地が歴史的に大きな転換期を向えたのは、このベッドタウン化だったことはいうまでもありませんが、この地で人々が寄り添い生活できるようになり、共同体として、今の「日野」の基礎ができたきっかけは、江戸時代初期、甲州街道の宿場町となったこと、明治になるまで多摩の他の村々と同様に幕府の直轄地となっていたこと、にあります。

日野は都心から30分、ちょうど東京都のへそに位置している市です。
日野は都心から30分、ちょうど東京都のへそに位置している市です。

日野から江戸までは十里(約40㎞)、一日の距離です。台地からは今も都心が見渡せるように、江戸の町がはるかに望めたにちがいありません。

江戸での出来事も日をおかずして、伝わってきました。

土地の記憶

日野は多摩川とその支流である浅川に挟まれ、川によって刻まれた侵食台地と川沿いの低地、そして高尾の山から三浦半島へと続く多摩丘陵と大きく3つの地形に分かます。

低地では江戸以前から用水路が開かれ、稲作が行われ、台地では畑作、丘陵の雑木林からの落ち葉からはたい肥と燃料を得ていました。

特に低地の稲作は「多摩の米蔵」ともいわれる石高を誇っていました。多摩川の水は洪水という試練も与えましたが、その清流は日野に潤いを与え続けてきたのです。

この土地の力を利用した農業を中心にした営みは昭和30年代までは当然のごとく行われていた風景でした。

新選組を生み、参加し、支えた人々はここで何を見ていたのでしょうか。

日野は3つの地形に分かます。
日野は多摩川とその支流である浅川に挟まれ、川によって刻まれた侵食台地と川沿いの低地、そして高尾の山から三浦半島へと続く多摩丘陵と大きく3つの地形に分かます。

人びとの想い

 新選組は、京都市中見廻りとして池田屋事件などで目覚しく活躍し、全国に武名を響かせました。

日野の人びとは、佐藤彦五郎をまとめ役として新選組の活動を物心両面から支援し、甲陽鎮撫隊が江戸へ進軍する東征軍を迎え撃った勝沼戦争には「春日隊」を組織し、最新式の鉄砲を用意して加わりました。

このため日野は東征軍から「新選組のまち」「賊軍のまち」と言われ、しらみつぶしの大捜索を受けた厳しい歴史も持っています。

しかし、佐藤彦五郎を中心に近藤勇・土方歳三を顕彰する「殉節両雄之碑」を建立するなど、彼らの姿を誇りをもって語り継いできました。

農民の子に生まれながら剣をもって幕末の激動に挑み、後世に語り継がれる活躍を果たした後、節に殉じて散っていった彼らを「賊軍」の汚名を被ったままに埋もれさせるには忍びなかったのではないでしょうか。

こうした経過から、佐藤彦五郎を中心とした日野の人びとと新選組隊士たちとの交流は新選組の消滅後も続き、日野市には現在でも数多くの書簡や遺品が貴重な資料として残されているのです。

近年発見された佐藤彦五郎の日記
近年発見された佐藤彦五郎の日記

日野市にまつわる人物

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新選組副長・土方歳三

新選組副長・土方歳三とは...

日野にいたころ

歳三は11歳のころ上野広小路の伊藤松坂屋に奉公に出ましたが、生来の利かん気からか番頭に反抗し、家へ帰ってしまいました。18歳で再び江戸の呉服屋に奉公したものの、とても商人で収まるような器ではなかったようで、その後は家伝薬の「石田散薬」を売り歩いたと伝えられます。石田散薬の原料となる「ミゾソバ」を採る時など、集めた村人を動かす段取りは非常にうまく、それが後に新選組副長として隊を運営する手腕に生かされたのではないでしょうか。

新選組副長

京都時代は「士道に背くまじきこと」で有名な局中法度をバックボーンにして、尊王攘夷派から恐れられる新選組をまとめ、治安維持にあたりました。その反面、郷里に送った手紙で「もてすぎて、国家のことを忘れてしまいそうだ」と自慢してみせる洒脱な一面もあったようです。

しかし、近代装備の薩摩・長州軍と初めて衝突した鳥羽・伏見の戦いに完敗し、「もはや刀・槍の時代ではない」と武士に憧れた歳三は痛感します。

指揮官として

歳三のすごさは、その後、東北各地を転戦するうち、堂々たる近代戦争の指揮官へと成長していったことです。

榎本武揚らとともに樹立した「蝦夷地仮政権」では「陸軍奉行並」に選ばれ、局地的な戦闘で無類の強さを発揮するだけでなく、全軍の指揮にあたりました。

明治2年5月11日、新政府軍の猛攻でいよいよ箱館の陥落が迫るや、弁天台場に立てこもる新選組隊士の救出に向かう途中、馬上で腹部に銃弾を受けて壮絶な最期を遂げたと伝えられています。

新選組副長・土方歳三
新選組副長・土方歳三

六番隊隊長・井上源三郎

六番隊隊長・井上源三郎について

人望篤い源三郎

井上源三郎は文政12年(1829)八王子千人同心の家に生まれ、18歳で近藤周助に入門、万延元年(1860)に免許を授かりました。文久3年上洛して、新選組副長助勤、六番隊隊長。池田屋事件では土方隊の探索隊長として活躍しています。

 慶応4年(1868)1月4日、鳥羽・伏見の戦いで淀千両松にて被弾し戦死。この時、近藤勇の小姓を務めていた甥の井上泰助(12歳)が源三郎の首と刀を運ぶ途中、あまりの重さにやむを得ずある寺の門前の田圃に首と刀を埋めました。その場所は正確には伝承されていません。

八坂神社に奉納されている剣術額
八坂神社に奉納されている剣術額
源三郎とともに兄の松五郎の名も見えます

日野宿名主・佐藤彦五郎

日野宿名主・佐藤彦五郎について

彦五郎なくしては新選組は語れません

代々日野宿問屋・名主を務める下佐藤家に文政10年(1827)長男として出生。母は歳三の叔母、妻は歳三の実姉ノブであり、歳三とは大変身近な関係。自宅に開いた天然理心流道場で近藤勇、沖田総司、土方歳三、井上源三郎、山南敬助らが出会うことになります。ここから、新選組の中核となった集団が生まれ、また、彼らを物心両面から支え続けた多摩の人びととの交流が生まれました。

自身も、「農兵隊」を率いて武州一揆を鎮圧したり、八王子壺伊勢屋の不逞浪士捕縛に出動しました。

甲陽鎮撫隊の勝沼戦争には最新式の元込め銃二十挺で武装した「春日隊」を組織して参加し、新政府軍から「彦五郎だけはなんとしても捕らえる」と厳しく追求されました。

最近になって、幕末の日記が発見され、新選組に関する一級資料として解明が期待されています。彦五郎は、明治7年7月の太政官達108号「戊辰・己巳の戦いで王師に抵抗し戦没したものの祭祀を許す…」を受けて有士と語らい、高幡不動尊境内に近藤・土方両雄士の顕彰碑「殉節両雄之碑」を完成させますが、内容が顕彰碑であった為に建立許可が得られず実際に建立されたのは明治21年でした。

日野宿名主・佐藤彦五郎
日野宿名主・佐藤彦五郎
佐藤彦五郎の幕末の日記
佐藤彦五郎の幕末の日記

日野・新選組関連年表

文政10年(1827)佐藤彦五郎、日野宿問屋(日野本郷名主)佐藤家に生まれる
文政12年(1829)井上源三郎、日野宿北原に生まれる
天保5年(1834)宮川勝五郎(後の近藤勇)上石原村(現調布市)に生まれる
天保6年(1835)土方歳三、石田村に生まれる
嘉永6年(1853)6月ペリー浦賀に来航
安政5年(1858)8月天然理心流佐藤道場門人23名が牛頭天王社に懸額を奉納
文久3年(1863)2月近藤勇ら将軍徳川家茂の上洛警護のために浪士組に参加
同 8月八月十八日の政変(いわゆる7卿落ち)。京都市中見廻りの「新選組」誕生
同 9月芹沢鴨・平山五郎、暗殺される
元治元年(1864)6月池田屋事件
同 7月禁門の変。天王山の戦い
慶応2年(1866)正月薩長盟約
同 6月武州一揆、日野宿組合農兵隊出陣
慶応3年(1867)6月新選組、幕府直参となる
同 10月大政奉還
同 12月佐藤彦五郎ら八王子宿壺伊勢屋での浪士捕縛に加わる
明治元年(1868)正月鳥羽・伏見の戦い。井上源三郎戦死
同 3月甲陽鎮撫隊、甲府城に向かう途中勝沼で東征軍と戦争。敗退
同 3月甲陽鎮撫隊に協力した日野宿、東征軍によって徹底的な捜索を受ける
同 4月近藤勇、流山で投降。板橋で刑死
同 4月土方歳三、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍と合流。宇都宮から会津へ転戦
同 5月沖田総司、江戸で病死
同 10月土方歳三ら榎本武揚率いる旧幕府海軍艦隊と合流。箱館五稜郭を占拠
明治2年(1869)5月新政府軍による箱館総攻撃。土方歳三戦死。五稜郭開城
明治21年(1888)7月高幡山金剛寺境内に「殉節両雄之碑」を建立

新選組関係資料館開館日

日野市にある新選組関係資料館の開館予定日です。
止むを得ず変更となる場合がありますので、必ず各資料館サイトや公式X等でご確認ください。

WEB版『誠』

昭和63年に発行された「新選組のふるさと日野」を紹介するガイドブック『誠』を掲載しました。
『誠』は新選組に造詣が深かった日野の郷土史家、谷春雄氏の文章に中野耕一氏が絵を付けられたものです。惜しくも谷春雄氏は平成16年逝去されました。氏の新選組に対する探究心と情熱、そして功績を讃え、ここに『誠』のWEB版を捧げます。

日野市観光協会

日野新選組同好会

新選組のふるさと日野には、新選組を通して親睦を深めている「新選組同好会」が結成されています。その設立目的は、新選組の歴史と情報を地元日野市民と共有し、新選組に関わる他の団体と情報交換を図り、もって「新選組」の存在を後世に語り継いでいくこととし、新選組に関する勉強会、講演会、映画上映会、史跡見学などを開催しています。

また、殺陣やパレードが好きな会員が日野市(ひの新選組まつり)はもちろん、函館(五稜郭祭)、北区(滝野川新選組まつり)、会津(会津秋まつり)、京都、よこすか開国祭、高知県のよさこいまつり全国大会などのパレードに参加しています。