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お神輿といっしょに

昨年、東日本大震災の影響で中止となった、八坂神社のお神輿が2年ぶりに日野のまちを巡りました。


朝9時宮神輿の宮出しです

 

今年から宮出しは関係する16の町内のみで行います


宮太鼓を先頭に甲州街道を行く宮神輿

旧甲州街道に入り、初めてのお仮場です

雪印メグミルク日野工場前の宮神輿

火の見やぐらともお別れです

昭和42年に開通した中央高速とはもう馴染みです

後の空き地は昔は梨畑。そのうち住宅になるのでしょう

今は畑と住宅ですが、昔は一面田んぼでした

万願荘では次世代の担い手もお神輿といっしょ

正面にニューロシティを見て行く宮神輿

次の時にはここには新しい道路との交差点ができています

お神輿はどこでも、何にでも似合ってしまうのが不思議です

ふれあいホールでは来年、国体の会場になります

横町を渡御する宮神輿

いなげや前を出発。いよいよ有終のの美に向かいます

午後4時予定より早く宮入です


日野市といっても、狭いようで広く、歴史的背景が異なる地域が集まって成り立っています。

大雑把に言えば、3つの地域、日野、豊田、そして高幡。

日野は日野駅近く、江戸時代、甲州街道の日野宿が中心。

豊田は戦後できた多摩平団地ができたために開け、高幡はご存知、高幡不動尊の門前町です。

八坂神社は狭い意味での日野の鎮守であり、日野市全域の鎮守ではありません。

くどくどと書いたのは、これを理解していないと、これからのお話が、何のことか分らなくなるからです。

八坂神社のお神輿は神社を中心に、東と西へ、隔年ごとにコースを変えて巡行しています。

八坂神社が面している、甲州街道は日野宿だったころからの道筋が今もそのまま使われています。

現在では、宅地が並び、意識して見なければ分りませんが、街道と宿場は少し高い位置にあり、そばを流れる多摩川からの災害を避けられる位置に設けてあります。

街道に沿った家並みを外れれば、畑や田んぼがどこまでも広がり、その中にポツンポツンと人家が固まり、江戸時代にはそのそれぞれが村を作っていました。

それらの村は、日野宿、つまり中心となっていたまちの業務を助ける仕事を担っていたため結び付きが強く、宿と合わせ、共同体となって機能していました。

共同体全体は「日野郷」と呼ばていました。

この「日野郷」の鎮守が八坂神社であり、今でもお神輿は、その範囲だった所を巡るのです。

宿場だけなら、それほど広くはありませんが、「日野郷」となると、多摩川沿いの低地のほどんどが入り、相当な広さとなります。

ここを一日で、お神輿を担いで巡るのはかなりの大仕事。

そこで、隔年ごとに巡路を変えているのです。

今年の東コースは、八坂神社を出て、甲州街道を行き、折れて入る道は徳川幕府が慶長年間に五街道を定めた時に、「甲州海道」となった道です。

街道は自然災害や防衛上、その道筋を変えており、この道は一番最初に定められた道です。

今でも車が何とかすれ違えるほどの幅のこの道に入るとすぐお神輿は「お仮場」と呼ぶ、しめ縄が張られた神域に鎮座し地区の代表の礼を受け、しばしの休息となります。

担ぎ手も替わります。

実は八坂神社を出た後も、見た目には同じように見えても、通る場所毎にその地区ごとの担ぎ手に替わりながら巡行してきているのです。

古くからの家が多く、玉石垣が趣きある道ですが、区画整理事業が計画されており、事実、少し先へ行くと、面影もなく区画割された新しい街が出来上がっています。

さらに今回を最後に見納めとなる光景もあります。

雪印メグミルク工場の横を通るお神輿は今回で最期になりそうです。

「雪印の工場」として馴染みが深く、子ども神輿が立ち寄るとアイスクリームのご褒美があるこの工場も、2年後を目処に移転が決定されてるのです。

火の見やぐらとお神輿の取り合わせも最期です。

もう寸前まで区画整理が迫り、火の見やぐらは今年中には姿を消すとのことです。

その古い道から、今度は今世紀になって開通した、モノレールを見ながら、「万願荘」と呼ばれている住宅地へ。

途中の住宅地はモノレールの開通によって交通利便性が増し、若い世代に人気と聞きます。

でも、まだまだ空き地や畑も多く見られます。

ですが、ここ一面が梨畑と田んぼだったとは、想像することさえ出来なくなっています。

「万願荘」は戦前、昭和17年に開発された住宅地です。

現在のように、住宅地化されることも予想すら出来なかったころ、何故に住宅開発が行われたのかと言いますと、この年、「日野自動車」が操業を始めているからです。

ここ以外にも当時の純農村だった日野としては、珍しかった区画整理された住宅地が造成されています。

管理職用と職人用住宅とが区別されて造成され、当時の社会の考え方が反映されており、現在は個人に分譲されてはいますが、区画割は残されており、見ようによっては、歴史的を物語る史跡の感もあります。

お神輿は、新しい住宅地を抜ける時は、ちょっとした好奇の眼の中を進みます。

でも、ここ「万願荘」は70年の月日を経ているだけあって、日野に根を張り、地区のお神輿を持っているほど。

お仮場となる地区センターは、他の古い地区同様、住民のみなさんが担ぎ手を手厚くねぎらう姿が見られます。

「万願荘」を出発すると正面にそびえるマンションは「ニューロ・シティ」。

その名の通り、ここは706世帯が暮らす大規模なもの。

羽田ヒューム管の工場跡地に平成17年に完成しています。

マンションにこだまするかけ声に誘われて、ベランダから高見の見物を決め込む姿もちらほら。

見おろす下にある東町のお仮場となる、公園に到着したお神輿はここで昼休みとなります。

午後、出発したお神輿は昔は旅人が多摩川を渡った「日野の渡し」への通称船場道を行き、この春全通した都道へと進みます。

消えるものあれば新しく生まれるものあり。

お神輿が始めて出会うのは、今年の春にオープンした日野市市民の森ふれあいホールです。

昨年は、渡御が中止となったので、3年ぶりとなった東コースですから、当時はまだ建設工事が始ったばかりでした。

このお神輿が新造されたのが130年前、果たして、130年後このホールはお神輿同様りっぱに「担がれて」いるのかと想像すると、お神輿の凄さに改めて感じ入るものがあります。

広い都道から、四ツ谷道と呼ばれる昔からの道に入り、しばらくすると、八坂神社そばの甲州街道へと出て来ます。

やっと、東を一周、そのまま神社へと思いきや、街道を横切り直進します。

多くの宿場がそうであるように、日野宿も鉤の手になっており、直進した道は旧甲州街道。

昭和7年に現在の日野駅下を通り八王子へ向かう新道が開通するまで、江戸時代の始めから使われてきた道です。

横町と呼ぶ家並みも古く、当然お神輿も長い間通い続けています。

ここまで来るといよいよクライマックスです。

いなげや前に作られた横町の「お仮屋」で、最後のお祓いを済ませると、宮入に突入。

毎年、何らかのトラブルがあるももの、今年は2年ぶりの宮神輿渡御を無事に済ませなければと、それも無く、拍子抜けするくらいすんなりときれいに収まりました。

5.6㎞になる巡行。

お神輿といっしょに、巡ればまちの変わり様も見える、そんな日野のお祭りです。


 
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