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森の行方

明治の「近代化」以来、日本の輸出製品の旗頭だった生糸。


だいぶ明るくなった森です

お隣八王子は生糸の輸出港だった横浜への中継地として栄え、日野でも百草出身の商人青木角蔵は横浜で生糸商人として成功し、故郷、百草村の松連(蓮)寺廃寺跡を明治19年に買収し、百草園として公開しています。

今も人々に親しまれてている百草園は、120年ほど前の一人のふるさとへの思いがきっかけとなっているのです。

 

パワーシャベルで根こそぎ伐採しました


ここは駐車場になる予定

整地されてこれから基礎工事

昔の面影を取り戻しました

おとうさんも集まる森です

大イチョウは移植されます

記憶に残るはずです

生糸の品質を高め、競争力を増すことは、国策として位置づけられ、明治以来そのための「蚕とエサとである桑の研究」が各地で行われました。

日野にあった蚕糸試験場付属日野桑園ー通称桑園ーもその一翼をになっていました。

桑園は昭和3年(1928)に開設され、主に桑と蚕の品種開発と飼育条件の研究が行われていました。

考えてみれば、当時の主要産業であった繊維産業の基礎であった「養蚕」を支える研究をする最先端の場。

気鋭の学者が集まっていた場所でもありました。

しかし、産業形態が劇的に変貌した高度成長期を境にして、養蚕の衰退とともに役割もおのずと変化を余儀なくされ、昭和55年(1980)には筑波研究センターへ全面移転、桑園で培われた研究技術は蚕を使ったゲノム研究へと引き継がれて行くこととなります。

移転後、桑園に広がっていた桑畑はスポーツの森公園と区画整理道路に変わり、蚕室が並ぶ一角には仲田小学校が建設され、残りは国有地としてフェンスに囲われ自然のなすままに放置されました。

そこは多摩川べりでもあり、たぶん洪水による肥沃な土があったのに、加えて桑園が建設されるまでは田んぼであった場所です。

栄養分たっぷりな土地には、時を置かずして潅木が覆い、園内に植えられていた並木のイチョウやケヤキは枝を切られることもなくなり、大木へと姿を変え、うっそうたる自然の森が出現することとなったのです。

昭和の始めに建てられた養室2棟がいい具合に朽ちて残り、桑園があった時のことを知る人たちにとっては、「荒れ果てた」とも見え、また「自然の力の脅威」を感じる場所。

それを知らぬ人たちにとっては「希少な都市の自然」であり、建物は産業遺産として眼に映っているようです。

ここ10年あまりは、夏休みの間だけ「自然体験広場」として、開放され文字通りワイルドな空間として子どもたちがキャンプをしたり、森に集う「アートフェスティバル」も開催されるようになって、だんだんと「忘れられていた森」から「親しみの森」へと認識されるようになりました。

ここ2.3年は、夏休みだけでなく、就学前の子どもたちが、五感をフル動員して遊ぶ場として、週一回開放され、遠く都内からも通ってくる「密かな」場所へとなっていました。

ここの敷地を利用し、数年前から噂されていた「ふれあいホール」の建設。

今年の春からいよいよ始まり、制限なく育った木々のうち用地にあたるものは、根こそぎなくなり、並木が素敵だった桑園当時の姿を彷彿とさせる光景が現われています。

夏、太陽の光があまりとどかなかった森の中も、周りの木々がなくなったせいで随分と明るくなりました。

工事用のフェンスが張り巡らされ、視界が遮られると思いきや、それ以上に深かった森の淵が消えたことで、遠くまで見渡せるように感じます。

もうすぐ、残された森の中では「自然体験広場」がオープン。

今年も8月には「アートフェスティバル」は開かれます。

毎週、子どもたちの歓声も聞こえてきます。

桑園が建設されて100年あまり、移転して30年、今年はこの土地の節目の年となりました。

 
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