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日野のそば

今年の日野産業まつりでは、日野の畑で穫れた「そば」から生まれた「手打そば」が供されました。


ひっそりと満開になったそば畑

 











豊田の畑でそばが栽培されている、との情報が寄せられたのが8月末のこと、さっそく行ってみると、場所は区画整理が済み、住宅に囲まれた畑。

確かに白いそばの花が満開。

さらに聞けば、このそばを収穫し、産業まつりでふるまう予定になっているということです。

そばを育てているのは、遊休農地の活用と、日野の名産物の新たな創出を目指して農家と市役所の有志が結成した「日野のそば研究会」の面々です。

10月の初旬にもなると、文字通りの日野の「新そば」が実を付け、刈り入れの時。

「日野のそば研究会」のメンバーによって収穫され、そば粉になったのは20kgになりました。


「日野のそば研究会」のみなさん

産業まつり初日、期待のそばを打つのは、そば打ちを趣味にされている日野消防署の職員のみなさんと立川の昭和記念公園にある里山、「こもれびの丘」などで活躍されている立川の食研究会のみなさん。

道具も持込みで、手際も鮮やかに、2時間あまりで目標の200食分のそばが打ち上がりました。

そばはつなぎに小麦が二割入った二八そば、沸騰した湯にさっと潜らせると、数ヶ月かけた待望の「日野のそば」がもう食べるばかりです。

日野とそばには蕎麦通の人々には有名なくだりがあります。

「ことし日野の本郷に来りてはじめ蕎麦の妙をしれり......しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麪の滝のいと長く、李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」。

文化6年(1809)3月、仕事で巡回中の大田南畝は日野宿の名主であった佐藤彦右衛門に手打ちの蕎麦切りを振る舞われました。

南畝はその美味しさに痛く感動し、「そばの文」という小文を書き上げ、佐藤家に残していきました。

南畝は本名を大田直次郎、代々幕臣で徒士の家に生まれ、19歳で漢詩文「寝惚先生文集」を出し平賀源内にも認められていましたが、本業は幕府の役人。

途中で文芸活動を停止し、その後登用されて大阪や長崎へ赴任してます。

50歳を過ぎたころから狂歌の創作を始め「蜀山人」の雅号で名声を高め、佐藤家を訪れた時には文人としても重きをなしていました。

「蜀山人」は蕎麦の評論家第一号とも目されていた人物です。

その「蜀山人」が「日野本郷でこの歳になって蕎麦の真髄を知った。長野から取り寄せたというそば粉を特別に碾いてくれて、いやいやその蕎麦はまるで素麺のように細く、白髪のように白く細い蕎麦には感心した」と絶賛したそばが日野で打たれていたのです。

それ以来「蜀山人」は日野を訪れるたびに彦右衛門にそばを所望したと伝えられ、次のような狂歌も残しています。

 いかにして 粉をひこ右衛門ふるいては 日野の手打もこまかなるそば


そばの膳

蕎麦通でなくても、心引かれる日野のそばです。

「そばの文」一軸と「蜀山人」が使用されたとされる、そばの膳も現存しています。

折しもその時から丁度200年目にあたる今年、日野で新しいそばの話が生まれようとしています。

機会があれば「蜀山人」の「せいろ」と「そばの文」を薬味に、いにしえの味を想いながら、「日野のそば」を食してみるのも一興、ではありませんか。

 
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