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平山季重 Vol.4 平山武者所季重

当時の武蔵を含め、東国の武士の多くは若年で京に上りました。

 

 平山季重も同様で京で上皇を守る衛士を(武者所)務めていました。平山季重が平山武者所季重と呼ばれる由縁がここにあります。
 
 平治元(1159)年、平治の乱が勃発すると季重は源義朝に従い戦います。平治物語によれば季重は奮戦し特に待賢門での戦闘で平重盛の軍勢500騎に源義平(悪源太)と共にわずか17騎で戦いを仕掛け、これで猛者として大いに名を上げました。
 
 しかし、この戦いは敗戦となり義朝とともに東国へ逃れる途中、義朝は謀殺されてしまい季重は東国武士たちとともに関東へ戻ることになります。これより3年前に起こった保元の乱でも武蔵武士の多くが源義朝と共に戦い平山季重も活躍しています。
 
 平治の乱以後、武蔵は平氏の支配を受けることとなりました。治承4(1180)年、伊豆にいた源頼朝がついに平氏に対して旗挙げしました。武蔵七党も源氏に加担することとなり、平山季重は、源義経の配下となって奮戦します。10月、富士川で戦勝し、続いて11月常陸に転戦し、佐竹氏の金砂城を攻め落とした時、季重は熊谷次郎直実とともに「身命を惜まず先登で殊勲をたてた」と頼朝から賞されました。このことは吾妻鏡に記されています。

 寿永3年年1月、木曽義仲を撃つべくして遣わされた義経に従い、京へと向った季重は宇治川の戦いでは敵陣に先頭を切って斬り込み、この時の活躍がライバル熊谷直実とともに平家物語にも描かれ、後世に伝えられているのです。

 翌、文治元(1185)年、屋島、壇の浦の戦いでも勇名をはせています。文治5(1189)年、奥州征伐の時には、かって自分が従った義経を討つという皮肉な運命に出会うことになりましたが、その功績をもって「驍勇無双の勇士」と賞賛され、幕府の元老に取り上げられています。


平山季重年表

    
保延6年(1140)? 平山に平山八郎直季の嫡子として生まれる
久寿2(1155)年 京都で滝口の武士に選ばれる
保元元年(1156) 保元の乱、源義朝軍に属し、初陣ながら功名を挙げる
保元3年(1158) 武者所に抜擢される
平治元年(1159) 平治の乱、待賢門での戦闘で名を挙げる。(平治物語)
しかし、敗戦、平山へもどる。これより20年間あまり平氏全盛期。
熊谷直実の養父の娘との間に三人の男子をもうける
治承4年(1180) 源頼朝源氏再興の旗揚げに応じる10月富士川で戦勝、11月常陸に転戦し、佐竹氏の金砂城を攻めおとし軍功をたてる(吾妻鏡)
寿永3年(1184) 1月、義経に従い京へ。木曽義仲軍と宇治川で戦う。
3月、一の谷の合戦で活躍(平家物語、源平盛衰記)
文治元年(1185) 屋島、壇の浦の戦い(平家物語、源平盛衰記)。右衛門尉に任ぜられる。筑前国三笠郡原田荘の地頭となる
文治5年(1189) 奥州征伐に嫡子平山小太郎重村と参戦。幕府の元老に取り上げられる
建久2年(1191) 横沢(現あきるの市)に大悲願寺を創建する
建久3年(1192) 源頼朝次男実朝誕生の際、鳴弦の大役を仰せつかる
建永2年(1202) 檜原村小沢に宝蔵寺を創建する
承元元年(1207)小宮神社を創建する(現あきるの市草花)
建暦2年(1212)? 8月没。享年73歳
※季重の生年、享年については詳しくわかっていません

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