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三鷲山鶴樹院大昌寺

日野宿に響いた時の鐘

場 所日野市日野本町2-12-13
電 話042-581-2125
交 通JR中央線日野駅下車徒歩5分
 

 大昌寺は浄土宗知恩院末のお寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚こと讃誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)が隠棲の場所として建立したといわれています。これは開設間もない日野宿の人々に懇願されてのことだったともいわれています。江戸時代、大昌寺の梵鐘(時の鐘)は日野宿に時を告げ、親しまれていました

 日野宿の名主を務めていた、新選組の育ての親である佐藤俊正(彦五郎)をはじめ、後の町長、市長など日野にゆかりある人々が眠っています。

説法色葉集

 八王子大善寺は早くから関東十八檀林のひとつ、僧徒の教育機関として知られていたこともあり、天正13年(1585)に讃誉上人が書いた「説法色葉集」は大昌寺にそのままに保存されています。

 「説法色葉集」は浄土宗の宗義を48項目に分けて解説したもので、浄土宗の宗宝、及び都の重宝にも指定されています。

讃誉上人の墓

 大昌寺を建立した讃誉上人は武州立川の住人、立川能登守の子息といわれ、川越の連馨寺(れんけいじ)の開山感誉存貞(かんよぞんてい)のもとで得度、その後、下一分方村(現八王子市)の相即寺忍誉貞安の弟子となりました。永禄年間(1558~1570)に滝山城主北条氏照が城下に大善寺を開基した時、開山に迎えられています。

 讃誉上人は大昌寺に移ってわずか3年後、慶長10年(1605)81歳で亡くなっています。

玉川居祐翁(ぎょくせんきょゆうおう)の墓

 墓石の両側に「月雪や花にととりし ちび筆の 思はずときのきゆる いのち毛 涼しさや西へ行く身の旅ひとり」と辞世が刻まれている玉川居祐翁こと中村太吉は江戸での奉公の後、下名主佐藤家の長屋門の一角を借りて東屋という小料理屋を開き、その東側にあった佐藤道場に入門、八坂神社の奉納額にも、中村太吉郎藤原満道として名を連ねています。

 14代将軍家茂上洛警護のため、 文久3年(1863)の浪士組として土方、井上、馬場兵助等と共に応じ上洛したものの、馬場兵助等と共に帰郷し、慶応2年(1866)6月の武州一揆、翌年の八王子宿で薩摩邸浪士をおさえた壺伊勢屋事件、さらには甲陽鎮撫隊に春日隊の一員として勝沼にもおもむいています。

 江戸での奉公の間、評判の狂歌師・絵馬屋(二世)額祐に師事し、俳句、狂歌、狂句を学んでいたことから、明治10年(1877)に絵馬屋三世を継ぎ、額祐と称し料理屋を営むかたわら句会の選者や評者も務めていました。

 明治20年には絵馬屋の号を弟子に譲り、玉川居祐翁と称し、幕府の崩壊や明治維新という激変の中、明治37年8月に亡くなるまで風流人として生きた人でした。

 同じ墓所内には実兄で、江戸の狂歌の判者であった呉龍軒那歳(ごりゅうけんなさい)の墓碑もあります。

佐藤家(下佐藤家)墓所

 大昌寺墓地の南西奥と佐藤家の墓所があります。

 隣り合って日野宿名主を勤めていた上、下、両佐藤家の墓所もここでも隣同士、屋敷割り同様、東に下佐藤家、西に上佐藤家と並び方も同じです。

 黒みかげ石の墓誌が立つ方が新選組を支えた佐藤彦五郎、そして土方歳三の姉ノブが眠る佐藤家の墓所になります。

佐藤家(上佐藤家)墓所

 上佐藤家の先祖、佐藤隼人正信は、美濃国(岐阜県)武儀(むぎ)郡八幡村の出身で、斎藤道三に仕えていた武士でした。しかし、道三が戦死してしまったので、同族の3人で東国を目指し、日野・佐野川・牧野(両現神奈川県津久井郡藤野町)に居を構え、日野の隼人、佐野川の才兵衛、牧野の一学といわれていました。

 日野の隼人は、日野用水の開削や元亀元年(1570)北条氏照により造られた甲州街道の前身ともいわれる街道の建設にも強力し、村人に押されて名主となり、後に実収三千石といわれた日野本郷の基礎を作りました。讃誉上人を日野に招請したのもこの隼人でした。

 徳川時代になり、日野が宿場に指定された慶長10(1605)年から明治初期まで佐藤家は下佐藤家とともに問屋兼帯名主の役を勤めています。

 八坂神社の天然理心流奉納額にも佐藤僖四郎信嘉の名が佐藤彦五郎正俊らと門人として名を連ねています。

 佐藤家は、維新後は町長などを輩出しています。

 
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