多摩川
水の北山の南や春の月
「水の北」とは多摩川、「山の南」こと富士山は、土方歳三が豊玉発句集の中で詠んでいるばかりでなく、日野で一番古い日野一小の校歌でも「南に仰ぐ富士の高嶺、北にめぐれる多摩の流れ・・」と唱われ、日野ならではの風景になっています。
多摩川は山梨県塩山市笠取山を源とし、多摩川の名の由来と言われる丹波(たば)山村、奥多摩、青梅と流れ下り、羽田で東京湾に注ぐ全長138㎞の都市河川です。
今でも東京都の水道水源として利用されており、その流域人口は425万人、昔、奥多摩の木材を筏に組んで流したその水辺は今では多くの人たちの憩いの場所ともなっています。
かつて江戸の生活水を支えたのも多摩川の水でした。羽村から掘られた、その当時では世界一の規模を誇る「水道施設」玉川上水は、四谷大木戸まで10里30町(42㎞)あまりを承応2年(1653)4月4日に着工,7カ月後の11月15日には完成させるスピード工事で開削されました。
その玉川上水から張りめぐらされた用水によって武蔵野台地に立川や小平の基礎となる新田が開かれてきました。
明治26年(1893)に多摩郡が神奈川県から東京都に移管されたきっかけの一つはこの多摩川の水利権にあったといいます。
昭和40年代になると流域のベッドタウン化に襲われ、水質は極端に悪化、川に寄ると溝臭く、風が吹くと洗剤の泡が飛び、川で遊ぶなどもっての他といった状態になってしまいました。
日野宿が新選組に対して強力な支援ができたのも、この水から得られた「米」があったからこそでした。
日野は下流から40㎞、江戸時代には瀬が鮎で染まるほどだったといい、献上鮎の漁場もありました。明治期から昭和30年代までは多摩川の河原から産出される砂利は国の工事基準に指定されるほどの品質を誇り、日野でも盛んに砂利掘りが行われていました。
現在では下水道が完備されたことが大きく、随分ときれいになってきています。一時は消えてしまった魚たちもたくさん帰ってきています。